さて、いよいよ3回シリーズの最終回。
私の個人的な活動報告ばかりを3日間も続けて読んでいただき、恐縮しております。
本当にありがとうございます。
今日は、続けてのご報告と、最近思うこと、などをつらつらと書きました。
8月には私の教室の恒例のおさらい会があります。
私は東京と和歌山に教室があり、おさらい会は合同で行います。場所は和歌山!
東京教室生有志も和歌山に大移動。
ゲストに尺八演奏家の大萩康喜先生をお迎えし、出演者は私を含め総勢27名。
今年は、小学生が3名参加!習得のスピードが凄い。(でもね、ゆっくりでいいんだよ。楽しいのが一番!)
さまざまな年代(1桁から70代までほんとに大家族なんです!)、プロアマ混在・・・でもこの日はみんな緊張しつつも楽しく「今の私」を披露するお祭りの日。
今年も賑々しく努めてまいりますので、教室を「箱推し」してくださるお客様各位、そして、もちろん「単推し」の皆様方、初めてお運びくださる皆さま、いずれも様におかれましても、8時間に及ぶマラソンコンサートではございますが、出演者一同、全身全霊、一心不乱にて熱き演奏をお届けする所存でございますので、何卒ご来場の程お願い申し上げます。
さて、話は飛びますが、最近の邦楽のコンクールやオーディションでは、曲が短くカットされること(5~10分以内)が当たり前になっています。
時間をかけてクライマックスに到達するのがその曲の魅力であったり、プロセスをいかに豊かに表現するかが肝であったりするのに、ダイジェスト版予告編みたいなもの(小説ならあらすじ?)だけで審査され、予選ならまだしも、本選や入賞者の演奏会ですらカットされたままの現状が、なんだか腑に落ちない。
作曲者の意図するところはほぼ無視されて、作品が演奏者の技術(しかも得意なところだけに編集可)の競い合いの道具になっているような気がして、やっぱり腑に落ちない。
その曲をいかに解釈し表現するかという音楽性より、いかに自分の得意なところをうまくアピールできるかということだけに焦点がずれていってしまうのでは?という疑問も残る。
経済的・時間的な問題でこうせざるを得ないのだろうけれど。と、裏事情も、なんとなくは汲みとれるものの、昭和生まれの私Aとしては、またぶつぶつである・・・。
『言うは易く、行うは難し』
自分だってコンサートによっては、カットして弾いてるじゃん。
と、冷めきったもうひとりの私Bがつぶやく。
うむ・・。返す言葉無し・・・。
要は、宮城先生や沢井先生、そして、多くの作曲家の功績にどっぷり依存しているということだよね。
なんてことだ!
と、頭を抱えるA
演奏するなら作曲家に敬意を払い、作曲家の意図を探り、真摯に向き合うべき。
先人の遺産を切り刻んで使い回しているだけなんて・・。
今の時代に演奏することに無理があるなら、私たちは私たちの時代、今の時代の音楽を創らなければ、それはただの怠慢(言いきったね!)じゃない?
(まあ、私の時代はすでに去りし時代なのかもしれないし、私たちの時代は違うし、誰の時代?問題はあるかもしれないけれど)
と、淡々と語るB
そうだよね。結果がどうあれ、挑戦と努力はすべきだ!と、熱くなるA。
数年前、フエというベトナムの古都で、伝統楽器の名手の皆さんが船遊びに誘ってくださいました。船上で演奏を聴き、その後、湖畔でお食事をいただきながら即興演奏に興じ、笑い声は水面に響き、それはそれは美しく、夢のような時間でした。
でも、今はもう演奏で生活することは難しいし、若い人は離れていくばかり。と、演奏家の皆さんは嘆かれていました。
たとえようもなく美しく幸せな時間でした。
でも、それが自分にとって一種のノスタルジーなのかエキゾチズムなのか、雰囲気に飲み込まれたのかリアルに音楽として美しいと感じたのかよくわかりませんでした。
そこは分けなくちゃならないの?
自分にとってリアルに音楽と感じられるものって何?
それって一つに決める必要ある?
と、迷路に入って、今も出口は見つからず。
コンクールしかり、オーディションしかり、時代の変化を止めることはできません。
そして、今の時代に生きる私が美しいと感じていることは心底美しいと感じているのか、実はいろんなフィルターがかかって見えなくなっているかもしれない。とも、ときどき疑います。
借り物ではないのか?
借り物でもいいんじゃない?
AとBはしょっちゅう問答しています。
でも、心はちゃんとわかっている。
何を求めているのか。を。
ただ、心は時折曇るから・・。
バリ島で舞踊を観た時、細かく震え続ける手の動きは、木々の葉っぱが揺れている様子を思い出させました。
もちろん、直接関係しているわけではないと思うけれど、人はどこかで美しさを感受して、それは心に留め置かれ、形を変えてふと現れるのかもしれないなあ。と思うのです。
そして、遊ぶことが大事と最近思います。
徹底して「遊ぶ」。
作曲しながら、「ああ、私ってほんとに能力ない!」と頭をかきむしるAと、「大丈夫?だから、言わんこっちゃない。焦らないでちょっとずつでいいからがんばれ。」とちょっと引き気味に励ましているB。
悶々としつつ、ゆらゆらと揺れながら、なんとか危ういバランスでギリギリ立っている私。
自分で生み出したライフワークに溺れそうになりながら、私の中のAとBは今日も賑やかにおしゃべりをする親友同志なのです。
悩んだ時、いつもこの指サック人形を見ると、私の中にふたりの私がいることを思い出して、つんつんして、笑ってしまうんです。
さて、連続3回シリーズの日記に繰り返し言葉(畳語)は何回出たでしょう?(笑)
おしまい。
私の心にうつりゆくよしなしごとを、押しつけがましく連続3話もお読みいただき、本当にありがとうございました。
See you soon!