一恵先生が2月15日に旅立たれました。私は連絡をいただき、和歌山でのレッスンを中断してすぐに東京に向かい、柩に入られる前に先生にお目にかかることができました。

今すぐにでも舞台に走って出て行きそうなきれいなお顔でした。

 

それからずっと、自分の思いをここでお伝えしたいと思いつつ、様々な思いが去来し、混乱し、まとめることができませんでした。

 

先生に初めて出会ったのは、私が小学校3年生の時、今から53年前。

和歌山で私が習っていた赤羽多美代先生のおさらい会に、沢井忠夫先生と一緒にゲストとして出演されました。両先生の演奏を聴いた瞬間に激しい衝撃を受け、8歳の私は箏の演奏家になりたいと思いました。

その頃、一恵先生は、「忠夫先生の奥様」という印象が強く、言葉少なで、いつも忠夫先生のそばに控えて、着替えや楽器の準備、身の廻りのことをすべてされていましたから、私も子供だったにも関わらず、やはり先生の奥様として一恵先生を慕っていました。お目にかかるのは1年に1回でしたが、ほとんどお話した記憶はありません。

小学校6年生の時、月に1度忠夫先生のレッスンに新大阪まで通うことになり、芸大受験前の夏休みには東京のレッスン場で、全国の門下生から芸大受験生が集まる合宿もありました。

その頃から、東京のレッスンは一恵先生がほとんどされていて、時間割はあったものの、レッスン場には順番を待つ人たちが夜中までずらーーーーっと並んでいたこと、一恵先生がご自宅で作ってくださった朝食の炒飯がすごく美味しかったことが印象に残っています。

 

一恵先生のレッスンは、芸大を卒業してから受けるようになりました。一恵先生はその頃から徐々にソリストとして個性的な活動を活発化され、リサイタルやレコーディングを頻繁に行うようになりました。

忠夫先生は、レッスンで一緒に弾いてくださることはほとんど無く、一度注意された事を二度目に弾いた時に修正できていないと眉間に皺が寄って不機嫌になられるので緊張感が漲っていましたが、一恵先生は表情を変えず一緒にともかく何度も何度もできるまでただ弾き続けるレッスンでした。

器用に弾けてしまう人よりも不器用だけれど情熱がある人を可愛がってらっしゃったように思います。

 

KAZUE SAWAI KOTO ENSEMBLEのメンバーとして海外公演をさせていただいた頃は、一恵先生に心酔しているというか、ほとんど宗教の信徒のように崇拝していました。

もちろん演奏も、旅での出来事も全てが素晴らしかったけれど、その時のメンバーはみんな個性豊かで、たくましく、刺激的で、情熱があって、その出会いを作ってくださったことにもただただ感謝しかありません。

 

私は、主に現代曲を中心にレッスンしていただきました。

当時、文化庁国内研修員として1年間、同時に忠夫先生からも現代曲のレッスンを受けていました。

忠夫先生は、技術的な事には徹底して完璧さを求め、楽譜からできる限り作曲家の意図を読み取り、咀嚼し、その上でそれぞれの自由な解釈を。という方針で、技術的なこと以外はほとんど何もおっしゃいませんでしたが、一恵先生は、仮に作曲家の意図を逸脱したとしてもその作品自体へのご自分の解釈をまず自ら示し、技術的なことはその後という方針のように思えました。

両先生の薫陶を受け、全く違うアプローチを学ばせていただいた事は、私にとってこの上なく貴重な宝物のような経験です。

 

私は、一恵先生の解釈と異なる事が多く、初めてのリサイタルで一柳慧先生に委嘱した新作が出来上がった時に、レッスンに持って行ったら、途中で一恵先生がその楽譜を取り上げて、ご自分で弾かれ、「どう思う?」とおっしゃいました。

私は答えられず、その後、5分くらいの沈黙があったと思います。

亡き親友が、レッスンを後ろで聴きながら、空気が凍りついて動けなかったと言っていました。

沈黙の後、「私の解釈は先生とは違います。」と、ひとこと発しました。

レッスンはそれでおしまい。

もちろん私に先生を納得させられるだけの力があるはずもなく、一恵先生の強烈さの前にいる自分の存在の薄っぺらさや小ささやコンプレックスも十分感じていながら、どこかで先生の世界に取り込まれたくない気持ちもあり、どんなに小さくても自分の存在を失いたくなかったし、正直でありたかった・・・。

先生は、私のその言葉に怒りもせず、ただ無言でした。

 

その後、先生の発案でジョン・ケージ作曲の「THREE  DANCES」の演奏をすることになりました。

本来プリペアドピアノ2台のための作品を十七絃4面に編曲することになりました。私は先生と1台のピアノのパートを担当することになり、右手パートは先生で、左手パートは私。

楽譜作りから始まり、調弦を考え、プリペアドの方法を考える・・・何度楽譜を作り直したかしれません。プリペアドの方法も4人全員が少しずつ違った音色になるよう工夫し、響きがどんどん豊かになって行きました。

やっと演奏方法が定まった後も演奏が難しくて、さらに4人で合わせるのは至難の業でした。私はレッスン場に泊りこみで、先生がレッスンや用事をされている間はこもって作業をし、練習をし、アイデアを練り、先生の手が空くのは夜遅い時間だったりするので、朝方まで栄養ドリンクを飲みながら先生と一緒に練習するという日が続きました。

十七絃を弾き続けるので、手も指も腫れて痛いのを、冷やしながら、何時間も何日も練習を重ねました。

レコーディングもやはり朝方までかかり、ニューヨークでジョン・ケージの前で演奏した時も、先生はひどい時差ボケ状態だったし、なんだかずっと朦朧として夢の中で時間が過ぎていったような気がします。

もはや師匠と弟子という立場も超えて、一緒に音の実験を重ね、不可能なことに何度もトライし、作品を作り上げていった時間は今思い出しても輝いていて、胸が熱くなります。

弟子というより一人の演奏家として接してくださいました。

 

そうして、私も少しずつ個人で演奏の依頼をいただくようになり、生活も自立していかなくてはならない事から、先生と距離をおくようになりました。

先生には一人の演奏家・音楽家としてだけでなく、全国組織の長として、指導者として、忠夫先生亡き後も大切な役割がありました。私は、先生と以前のような関係性を失いたくなかったし、性格的にも生活的にも独自の道を歩いて行くことを選びました。

 

一恵先生との関係は、まさに昭和の師弟関係だったと思います。

励まされたのは、芸大受験の二次試験でミスをして落ち込んでいた時のただ一度だけ。

褒められたこともありませんでした。

2019年、森の会(芸大邦楽科生田流箏曲専攻の卒業生から成る会)で一恵先生が実行委員をされることになり、坂東祐大さんの新作を演奏することになりました。先生が芥川作曲賞の選考会で坂東さんの作品を聴いて、この人にぜひ箏のための作品を書いてもらいたい。そして、箏の歴史を変えてほしい。と思われたそうで、さらに、敢えて森の会という場を選ばれました。

先生はその初演メンバーのトップに私を選んで、全てを任せてくださいました。

その練習の最中に私の父が旅立ちました。

慰めも励ましもなかったけれど、初演が終わった時、初めてお褒めのことばをいただきました。

人生たった一度の・・・。

 

スマートフォンの中に今もそのメッセージは残っています。

カタカナが混じった賑やかな文章、繰り返されることば、ハートの可愛い絵文字、あちこちに飛び交うビックリマーク・・・先生が亡くなって、それを開いた時に初めて滂沱の如く涙が溢れました。

激烈な言葉に打ちのめされたこともあったし、なんとも言えない重い沈黙の瞬間もあったし、鳴り止まぬ拍手の中で一緒に先生や仲間と笑い合えたこともあったし、矛盾と苦悩を抱えた先生の後ろ姿も見てきました。そんな記憶の層があまりに重なりすぎて、訃報を聞いても、悲しいというシンプルな気持ちにはなれなかったのです。

褒めてくださったメッセージも、森の会前後二人で話した時に言い交わした約束も、それは私の胸だけに大切に留めて、やっぱりひとり静かに先生を見送りたいと思いました。

 

先生は、多くの人の中に違った形で強烈に残っていると思います。

違った顔をいくつも持っていたからこそ多くの人との距離が近く、それだけ一人一人のことを本当によく見抜いていた先生でした。

 

先生がお爪を忘れた時、私のを使ってください。と、私の親指のお爪を渡したら、先生の小指にも入らなくて、その手の大きさに驚き、小柄なのに巨人のような人だから白髪もないし、普通の人のように年も取らないんだ。なんてずっと思ってきました。

私の中では、今も体ごとぶつかって「焔」を演奏していた先生のまま。

 

尊敬と感謝と懐かしさとさみしさと・・・一恵先生、本当にありがとうございました。

合掌

 

See you soon!