母と高野山に出かけた。高野山に代々住んでいらっしゃる西山さんという方に案内していただいた。
山の上にこんなにたくさんのお寺があって、門前町が開けていることに驚く。
たくさんの観光バスがひっきりなしにやって来て、参道はツアーの人たち、お遍路さん、ガイドさんの説明の声があふれていて、都会のような喧騒。聖地という現実離れしたイメージはない。ここはあくまでも俗っぽく、現実そのもの。
奥の院に入っていく(ここは撮影禁止)。無数の火が目に入る。
お参りするひとたちがささげたろうそくの火。読経の声に包まれながら何百年も守られ続けている火。
たくさんのゆらめく赤い火と大地のうなりのように響きわたるお坊さんたちの声、お線香の煙とかおり。
いきなりちがう世界に飛び込んだような感覚になる。千二百年もの間こんなにもなまなましく力強く同じことが繰り返され、人々は絶えることなく訪れる。この圧倒的な強大なちからはどこからくるのだろう。
弘法大師、空海という伝説の人物がここでは「お大師さん」というとても身近な存在なのだ。
信仰というと最近はなんとなく狂信的で組織的なにおいを感じてしまって危険視したり、疑ってみたりするが、本来はいつもどこかで見守ってくれていて、困ったときは相談に行ったり、頼ったり、だけど親しみやすくあたたかいものなのだろう。お大師さまは今も生きてらっしゃるということがここに来るととてもリアルに感じられる。
小学校生活の中でいちばん心に残っていることば。小学3年生の新学期に先生が黒板にまずはじめに書かれたもの。
「天知る、地知る、我知る」
いつも、どこかで、だれかが見ている。
それは、自分の中にもある目。
現実の向こう側にある世界は、自分の心を突き抜けたところにある世界と実はつながっているのかもしれないと思った。
今度は九度山町から歩いて来ますね。と、西山さんとお約束。
おいしいごま豆腐やおまんじゅうをお土産に買って、帰りの電車は爆睡。
せっかく久しぶりにふたりで出かけたというのに、相変わらずどこでもグーグー寝ている娘に母もあきれていた。