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 和歌山での「先生」から、鎌倉に帰って来ると、私自身の音楽や活動に関する仕事が山積していて、帰った次の日から録音、打ち合わせ、リハーサルというように毎日朝からバタバタと出かけ、プレイヤーモードに切り替え!KOTOVORTEXのミーティングもありました。こちらの方も活動再開!
何より悩みの種は曲作り。
もうすぐシカゴに行くのだけれど、そこでのコンサートで自作曲を弾くことに決めた。台風で大雨が降る中、楽器を触っていてできた曲があったから、ちょっとしたきっかけで決めてしまった。
自分で決めたくせに、いざ発表するとなると自信がなくなってきて、少しでもまともな曲にしたいとあれこれ改善すべくああでもないこうでもないとやってみる。
今までたくさんの作曲家の作品を演奏し、初演し、作曲の段階から立ち会ってきたというのに、この私にはなんの身にもなっていなかったことを痛感!はぁ~。(溜息)
私は作曲というものを学んだこともないし、経験だってほとんどない。だから、作曲の方法というものを全く知らない。
じゃあ、どうする?
ものをつくることが同じことだとすればまずそこから出発するしかない。ふむ。でもね、大体こどもの頃から、私はものをつくることが苦手。
お料理は全然できなくて、友達が私の家に泊まりに来てくれて、朝食にスクランブルエッグを作っただけで感動される有様。
家庭科の宿題で手編みの毛糸の帽子を作ったときも、途中妙に大きいし、やたら広がっていく様子に異常を感じてはいたものの、いつまでたってもかたちが変だと思ったら、極細で編むべきものを極太の毛糸を使っていたらしくものすごく巨大な帽子を制作してしまったこともある(苦笑)
(気づくでしょう?普通は?こんな帽子かぶるのって象くらいじゃない!?って)
パジャマを作れば、かたちにはなったもののゴムがきつすぎて血が止まりそうだし、どことなくかたちが垢抜けなくて、こんなの着て寝ると悪夢を見そうだ!と思ってついに一度も袖を通さなかった。
四角い木を彫って人の像をつくるときも、とうとう最後までトーテンポールから脱出できなくて、クラスでひとり謎の像を作ってしまったり、失敗談はありすぎて語り尽くせない。。。
やっぱりものを作れる人はスゴイ!
でも感心している場合じゃないから考える。。。。ふむふむ。。
ともかく筋道を立てたり、論理的な思考を組み立てたり、構築していくことが私にはできないということがわかってくる。
行き当たりばったりの感覚と本能と勘。これだけで生きてきた!縄文人だと思う、たぶん。。。と、すぐ話は逸れる。だめだめ!
で、こどもに学ぼう!とばかりにわらべうたを辿ってみることに。
分析などできないけれど、こどもたちは身の回りにあるほんの少しのことばや音で生き生きと音楽を作っている。
私にもなにかできるかもしれない!と勇気づけられる。
やっぱり遊ぶということから徐々に何かを見つけつつ、つないでいく、ひろげていく、というやり方しかないと思い、またまた、ああでもないこうでもないとぽろぽろ筝を鳴らしてみたり、わけのわからないうたをくちずさんでみたりしている。
これはいいかも!と思っても次の日になってもう一度弾いてみると、とんでもなくつまらないものだったりしてまた振り出しに。このくりかえし。。。
シカゴに行くまで間に合うのかなあ。。。と実は少々焦っている。
しかも、なんと、シカゴ大学では英語でワークショップしなくてはならない羽目に!こちらの方も半泣き状態で、あれこれ考えている最中。
ものをつくるのが苦手なことに変わりはないけれど、どんな稚拙なものでもいいから、どんな愚直なものでもいいから、作っていきたいと今は思っている。
どうしてそう思うんだろう?
どうしてそう思うようになったのだろう?
音にあるいのち。ことばにあるいのち。
そのちいさなちいさな世界の中に、おおきなおおきな世界が拡がっている。宇宙に向かうように。もっと遠くの知らない世界につながっている。
そんな無数の星たちをただ眺めているだけでなく、その中に入っていって遊んでみたい、泳いでみたい、そんな気がしたのかな。
作るためのマニュアルもなければ、何ができるか結果も予想できない。ただ目の前にある材料をこねたり、ひっぱったり、つぶしたり、ちぎったりしながら、その中で何かができるかも。と探っていくこと。それしか、今、私にできる方法はないのかな。と思っている。
追記:あっ!そういえば、これは全く関係のないことだけれど、最近寝る前にトーベ・ヤンソンの「ムーミン谷の彗星」を愛読している。これを読んで寝るとなんだかとても幸せな気分で睡眠に入れることをご報告!
(写真は私の鎌倉の家のベランダから撮ったもの。)
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