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<連日のコンサート>

 海外公演は、たいてい何かあるものだけれど、今回はほんとにハプニング続きだった。
WORLD MUSIC FESTIVALの中のコンサートなんだけれど、迎えの車が一時間以上遅れたことは2度もあり、スタッフが宿泊先を間違えて遠回りしてかなりの時間をロスしてしまったせいでリハーサルの時間がなくなったり、本番の5分前というのにまだ準備ができていなかったりということもあった。
演奏に関しても、ラジオの公開収録が突然あったり、私が出ないはずのコンサートで当日突然弾くことになり衣裳をお借りして演奏したりと予想もしないことがいっぱいだった。

今回は高田さん、石川さん以外にギターの内橋和久さんとno input mixing boardの中村としまるさんが一緒だった。もちろんオーガナイザーのジーン・コールマンも作曲・演奏した。
内橋さんは、ウィーンに生活の拠点を移し、このコンサートの後はニューヨーク、南米へ、3ヶ月は旅に出ているそうだ。中村さんも、この後ニューヨークでのライブがずっとあるそうで、おふたりは、ほとんど日本にはいない。
いろんな経験のせいか、性格なのか、ともかく1時間以上、下手したら2時間近くの待ち時間も誰も怒らず雑談に興じていた。スケジュールなんてあってないようなもの。だんだんそれに慣れて、先のことを決めたり、計画しなくなった。

ふむ。即興の極意が日常生活にしのびこんできた?

そんなわけで、私は、まったく予想もしていなかった古典「みだれ」を3回も弾くことになり、自作曲を弾くのも日本にいるときはあれほどじくじく考え、不安に思い、緊張までしていたというのに、結局リハーサルはなし。演奏の準備ができたのもぎりぎりで、息切れしているようなありさま。緊張なんてしている時間などあるはずもなく、気がついたら舞台にのっていたという感じ。

ええっ?初演なのにー!これってなんかさぁー!?(という内なる声も虚しくせきたてられるように。)

曲名は「RAIN」。雨の日に作ったからという単純な理由もあるけれど、雨が降り始めていろんなものにぶつかるときの音や、降ったりやんだりするときの雨のリズムの変化、雨足はダンスのように見えたし、空を見上げたら雨は放射状に自分にだけまっすぐに向かってくるようにも見える。どしゃぶりの時にわざと外に出て雨に打たれると心にたまったものが激しく洗い流されていくようで気持ちよかったり、雨あがりの虹や、植物の喜んでいる様子。その一方で人の命さえも奪ってしまう恐ろしさ。そんなたくさんの思いをこめて曲名にした。
後半に歌のフレーズを少しだけ入れた。「歌う」というより、「詠う」かな。

演奏を始めてから、急にどうしよう。。。という気になってきた。即興が大部分なんだけど、こんなのでいいんだろうか?という思いが膨らんできてちょっと立ちすくむ。そんな不安があったから、けして安定した演奏でなかったし、歌ではなかった。ただ、ことばや音を大切にぽつりぽつり置いていくようにした。

終わった。
客席からたくさんの拍手と「フーッ!!!」という掛け声が聞こえたときにはうれしかった!

今だって全然自信はないけれど、喜んでくれた人がいる、伝わったひとがいる、それだけでがんばって続けてみよう。という勇気をもらった。この作品はまた、もう少し改作したいと思っている。(なにせ、楽譜がないしね。。。)

自作曲以外の演奏も無事終了。

終わるといろんな人が寄ってきてくれて、「BEAUTIFUL!」と言ってくれる。楽器自体、音、それが美しい。と。
以前は、BEAUTIFULなんてつまらない!もっと強くて、刺激的で、驚かせるようなものでないと印象が薄くてなんだか弱いなあ。とため息まじりに思っていたし、それを克服するためには華麗なテクニックとちからが不可欠なんだ!と確信していた。けれど、最近はあっという間に消えてしまうはかなさや一音に潜むゆらぎや、余韻のかすかな重なりが、ほんの一瞬現実に姿を見せる水上の波紋のように深くて美しいと思うようになった。
これが、筝の特性であり、魅力のひとつだと今は思っている。

大きな音は特に意識しなくても聴こえてくるものだけれど、ちいさな音は、耳を澄ませる、注意深く、気をつけてということをしないと聴くことはできない。
そこに、演奏者と聴衆の意識の交点が生まれる。
感覚がひとつに寄り添っていく瞬間。

(一緒に映っているのは三弦の高田和子さん、作曲家・バスクラリネットのジーン・コールマン氏)

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