シカゴから戻り、和歌山でレッスンをして、そのまま金沢に移動。
鎌倉に戻りすぐ書きたいと思いながら、久しぶりにひどい風邪をひき高熱にうなされ、そのあと整体に行ってバキバキボキボキからだを整え、和歌山で母の充実した食事とおいしい空気、生徒さんたちのパワー、のんびりした雰囲気ですっかり回復、やっと書くことができた。
10月8日、9日金沢21世紀美術館で公演があり、リハーサル等で結局金沢に5日間滞在することになった。
今回の公演は、まだ現在の日本列島が完全に形作られる以前1200万年前の植物プランクトンの遺骸が堆積して作られた珪藻土によるインスタレーション&パフォーマンス。能登半島の珪藻土埋蔵量は世界一を誇るそうだ。美術は造形作家の伊藤公象先生、久世建二先生と金沢美術工芸大学工芸科大学院のみなさん、音楽は作曲家の藤枝守さんを中心にしたメンバー。
パフォーマンスが行われたのは、美術館地下のシアター21というホール。
そこに足を踏み入れるとなんともいえない淡いオレンジ色のようなピンク色のような土が敷き詰められている。
においがする。
こどもの頃砂場で感じたにおいともちがう。もう少し香ばしいようなしっとりしたようなにおい。
そして中には作家の方々がその土で作られたさまざまなかたちの土のかたまりが姿を現している。
パフォーマンスは声明、吹物、打物、弾物、声、ダンスによって行われた。
それぞれのパートには少しの決め事とたくさんの自由なパフォーマンスが望まれる。
最近、演奏するってどういうことだろう?と考える。演奏家は楽器を弾く(演奏する)ということだけなのだろうか。と。。。。
演奏することは、演じること?体現すること?
それは、身体表現なんじゃないだろうか?(あたりまえといえばあたりまえだけど。。。)もしかしたら役者さんやダンサーと同じかもしれない。なんて。。。
演奏家はつくるひとではない。
その場に漂うものを感じ、読み取り、その中で何かを表現する。
即興なら全く自由に、楽曲ならそのマニュアルに従って自分の身体の中に読み取り、音のかたちを表す。
(即興演奏しているときって作曲しているのだろうか?つくるってなんだろう?とまた次から次へと疑問はわく。。)
限られた時間の中にあるできうる限りたくさんの情報を瞬時にからだの中に取り込み、自分自身のフィルターを通し、音にしてまたこの現実に放出し、そして音は一瞬にして静寂のうちに再び帰っていく。
それはまるで呼吸のよう。
私は肺のように循環の一部になる。
風が吹けばその強さや柔らかさ、においを感じたくて、雨が降れば飛び出していって細い雨やちいさな雨粒、どしゃぶりの叩きつける感じをからだで感じたくて、木に出会えばそっと触れてみたい、葉っぱの一枚一枚を大事になぞってみたい、花が咲いていれば話しかけたい、虫がいれば遊んでみたい、最近はそんなことを強く感じるようになった。
実際飛び出して行って体感することが多くなった。
だから、珪藻土を見た瞬間にその場に寝っ転がってつちのにおいや感触をからだ全部で感じてみたいと思った。
みんながいる前ではさすがに恥ずかしくてできなかったけれど、誰もいないときを狙って土の舞台の上に仰向けに寝転がってみた。
ひんやりと少しごつごつした感じが背中に心地よい。
視点が変わるから、珪藻土にまるで溶けてしまったよう。
自分自身がつちになる。
なんて気持ちいいんだろう!わたしはもうわたしじゃない、つちなんだから。
だんだん自分という存在がなくなっていく。
沖縄で海を見たときもそうだった。
自分自身が空っぽの入れ物になっていく感じ。
主張はなくても、からだの中にはたくさんの情報があり、性質があり、性能があり、機能がある。
情報を捉える感覚、表現する方法、出力。。
だから人によって演奏が違っておもしろい。
技術は以前と変わらないかもしれないけれど、ものの感じ方や自分自身の感覚が変われば演奏しているときの自分の状態も演奏自体も変化する。
昔は予想通りの音しか出さなかったし、出せなかったけれど、今は出た音に自分でも驚くことがある。
そして音の消えてゆく道筋をゆっくり見つめている自分がどこかにいる。
音は生き物。
風や雲や海みたいにどこかで私が追っている。そのもの自体になってしまいたいから?
自分が出している音なのにそれよりあとにその音を追いかけている自分が浮かんでいる。
どんな小さな音も、にごった音も、欠けた音、かすれた音もすごく大切な気がして、その音に触れたくなってしまう。
とてもとても大きな呼吸のなかで、つつましやかにたくさんの循環の輪が重なり合っている。
ただその場にあるという事実、生まれたという事実、それをもっと大切に、そのゆくえをもっとやさしく丁寧に最後まで見守ること。
風に吹かれているとき、雲の流れをたどるとき、青空を見て微笑むとき、木の葉っぱがざわめくとき、そして家族の話声のする食卓。。。
たった一音でそのすべてがまるで超高速の映画のように自分の中をかけぬけていくことがある。
演奏家になって幸せだと思う瞬間。
それをもしいっしょに共有できるひとがいたら、幸せはどんどんふくらんでいく。
きっと。。。
(写真は、パフォーマンスを行った舞台と珪藻土のかけら。そして和歌山の自宅の庭で久しぶりに撮った写真、秋の七草のひとつフジバカマ、ミズヒキソウ、サザンカのつぼみ、ホトトギス)