昨日は鎌倉まつり。
今年も、「静の舞」の地方のひとりとして、奉納演奏させていただきました。
うれしいお知らせ。うれしいきざし。
3月10日に暴風のために倒れた大銀杏の木に新しい命が宿りました。きみどりいろのつるつるのかわいらしい新芽が、まるであかちゃんのように空に向かって手を伸ばしていました。
みんなの祈りが通じたのですね。
木のまわりにはたくさんの人が集まっていて、新芽が出たことを喜び、これから無事に育っていくようにと祈っていました。
千年近く、ここでさまざまな人々を見て、生活を見て、歴史を見てきたご神木。
そして生まれた新しい芽が金色の葉を鈴のように揺らす大木になるのはこれからまた千年近くの月日を必要とします。当然私も、すべての人々もこの世を去り、どんな社会になって、人々はどうなっているのでしょうね。
平安時代の人たちから現代の生活は想像もつかなかったでしょうけれど、同じように呼吸をして、同じ身体を持った人間であることは変わりません。
でも、これから先は、自分と同じコピー人間だって生まれてくる可能性があるし、月や他の星に住んでいることだってあり得るし、飛行機は宇宙を往来しているかもしれません。
逆に人類が滅びている可能性もあります。
親子の関係はどうなっている?学校なんてあるのかな?
ことばもきっと変化しているでしょう?だったらコミュニケーションだって、社会の仕組みも変わってるはず。
お金なんて無くなってすべてカード?鉛筆はなくなる?紙は?寿命はもっと延びてる?
整形技術が進んで年をとっても皺はない?
でも、眠る?食べる?見る?聞く?
でも、それも頭で想像すれば満足するようになる?
身体感覚がなくなっていったなら、人間はどうなるのでしょう?
レッスンをしていると、たまに楽譜を見ただけだとどんな風に弾いていたか忘れてしまって、さっぱり思いだせないときがあります。
だけど、その楽譜を弾くうちに頭より手が勝手に動いて思いだしていきます。
手に導かれて脳が動き始める・・・。自分でも不思議な感じがしました。
記憶って不思議です。
今日、久しぶりに詩を読みました。
少しのことばがぽつりぽつりとあって、紙面はほとんどが空白。
心が落ち着きました。
この感覚は、枯山水の石庭を見ているときに似ていると思いました。
ことばと次のことばに関係があるのかないのかわからない。
ひとつのことばが、波紋のように広がって何かを投げかけて、はっきりとした答えは何もなくて、だけど確かに立ち現れるひとつの世界。
においでその世界を確認するしかないような・・・。
書店に行くとハウツー本が並んでいます。
「○○する方法」「○○になるために」「○○すればあなたも○○になれる!」・・・
ほんとは、その方法を考え出すのが一番楽しいのにな。と思いながら、その前を通り過ぎます。
身体も能力も同じ人はひとりもいない・・・のだからやっぱり自分で考えるしかありません。
本の中にヒントはあったとしても、結局は自分自身と相談して、オリジナルな方法を考えるしかありません。
その過程で自分を見つめ、自分を知って、自分に気づきます。
そうして、また、他の人にも心を寄せることができます。
「はな」ということばだけで広がる豊かな世界。
目を閉じて想像する花は、何の花ですか?一輪ですか?
今はまだつぼみですか?
何色ですか?
かおりがしますか?
どこに咲いていますか?
散る瞬間ですか?
ひとつのことばが持っている広がりに身をゆだねて、時折は、風に揺られてそのかたちの変化にすべての感覚をそばだててみる・・・。
今日は久しぶりにそんな時間が持てました。
氾濫する饒舌な情報に埋もれてしまわないように。
雨の音は静けさを誘います・・・。