子供の頃(今から40~50年ほど前)書道教室は町の至る所にありました。私も近所の書道教室に通っていました。耳が不自由な先生で、会話はいつも筆談でした。先生が字を直してくださった赤い”ラッションペン”は私の憧れでした。そのにおいは今も忘れられません。長机に自由席の教室には入れ替わり立ち替わり子供達がやってくるので本当に賑やかで、先生と筆談したくてこどもたちが先生の机のまわりに集まり、メモをのぞきこんでは自分の順番を待っていました。みんな先生が大好きでした。
そして、町の文房具屋さんは私にとってパラダイスでした。今でも素敵なペンやノートを見るとつい我慢できずに買ってしまいます。
私は「書くこと」が好きです。内容は別として「書く」という行為・作業が好きなのです。
今は字も「書く」より「打つ・叩く」ことの方が断然多いですよね。
最近は漢字を書けない人が多くて、お店で領収書をもらう時も「衣装代」という字を書けない人がほとんど。『衣装』って多分小学校で習う字ですよね?書けない人は、生まれた時からコンピュータが生活に欠かせない若い世代だけではありません。私も例に漏れず、読むことはできても書くことのできない漢字が多いです(多くなりました?)。特にパソコンを使うようになってから、昔はすらすら書いていた漢字ですら細かい部分が自分で疑わしい。この線は何本だったかな?突き抜けてよかったかな?などなど。。。
「書く」というのは、一種の指の運動。
「見る」「聞く」という感覚の記憶は意外と曖昧で忘れやすいけれど、身体の動きとして記憶させると定着しやすいのかもしれません。たとえば、何年も前に暗譜した曲が、頭ではすっかり忘れているのに、弾き始めると手が覚えていてすらすら出てくることがあります。これは自分でもすごく不思議な現象です。それと結びつけていいかどうかはわかりませんが、私が「書く」という行為を楽しく思うのは、身体の運動としての喜びや快感みたいなものが根底にあるように思います。
『身体は動きたがっている』・・・と、最近感じます。動かしていないと錆びついてしまう。
文字は、指の微妙な力の具合や角度で全くちがうものに変わります。「書く」ときには、線のバランスや点の位置、大きさや濃さ、全体の字配り、崩し加減、ちょっとした乱れが味わいを産むこともある、、、そんな工夫や出会いがとても楽しい。
それに対して、パソコンでは、キーを強く叩いても弱く叩いても出てくる文字は同じ。味気ないけれど、仕事の事務連絡が癖のある手書きでは読みづらいし、余計な情報があってはなんだか冷静な判断が難しくなりそうですよね。第一、仕事が進みません!
目的によって選択することが必要ですよね。
 
手紙を書くために、封筒・便箋、カードなどを選ぶことから始まって、ペンを選び、相手や内容によって字体も変えるというのは、作品制作に近いのかもしれません。そこには、たくさんの情報が詰まっています。だから温もりがある一方で、時には重いと感じられてしまうことがあるかもしれません。でも、私の場合、手書きのお手紙は投函した時点で自己完結しているので、何かを求める気持ちはありません。これが過ぎると自己満足や押しつけになりかねませんね。笑。それでもやっぱりスローペースの手書きが断然好きです!
手紙などの目的がなくても、「書く」という行為は不思議と心を落ち着かせてくれます。紙の上を滑るペン先の音や感触、そこから次々と生まれる線や点がかたちを作って意味を持っていくということのおもしろさに時間を忘れて夢中になっている瞬間は穏やかな幸せを与えてくれます。
さて、4月1日は江戸信吾さんの作品発表会があり、出演させていただきます。その情報はまたすぐにお知らせいたしますね。その前に、桐蔭高校のおさらい会が3月21日にあります。そのご案内もいたします。
まもなく!