沢井忠夫先生の演奏を初めて聴いたのは小学校3年生(8歳)の時。その瞬間に私の歩む道が決まりました。

私は4歳の頃から箏は習っていたものの小学生になるとクラシック音楽に魅力を感じるようになり、小学2年生からはピアノに夢中でした。

その頃、和歌山で箏の手ほどきをしてくださった赤羽多美代先生は、新しい曲を習得すべく大阪まで沢井忠夫先生のレッスンに通われるようになりました。そして、1972年、初めて沢井忠夫先生(当時35歳)が和歌山のおさらい会にご出演され、特別演奏をされました。

『水面(みずも)』を一恵先生と演奏されたと記憶しています。目の覚めるようなドライブ感と圧倒的な音の力に私は感動というよりむしろ衝撃を受けました。

驚いてなんだか全てが止まってしまったように感じました。

あの楽器からこんな音が出るなんて!こんな世界があるなんて!

「連れて行かれた」感じでした。

そのうち、東京芸大に行きたいと思うようになりました。先生が歩んだ道を私も歩みたかった…。箏の演奏家になって世界中で演奏するというのが私の夢になりました。

先生は当時、子供は教えないという方針でレッスンされていましたが、無理を承知で母と赤羽先生が先生に頼み込んでくれました。忠夫先生が出された条件は「次回のおさらい会の舞台をオーディションとし、レッスンを受ける資格があるかどうか判断する。レッスンをするとしてもけして子供扱いはしない。」という2点でした。

小学6年生(11歳)のおさらい会。前日の夜、「明日はいよいよ運命が決まる!」と緊張して寝床に入ると、突然電話があり、父が大阪で転倒し救急病院に搬送されたとのこと。母は「どうしてこんな時に…。」と泣きそうになりながら、慌てて着替え、私たち姉妹3人を近所のおばさんに託して走って飛び出して行きました。

あまりにバタバタしていたので、それから演奏までどんな風に過ごしたかは思い出せません。ただ、おばさんが朝食にあたたかいミルクコーヒーを挿れてくれたのだけれど、お砂糖と塩を入れ間違ったらしく、たまらなくしょっぱくて、妹たちも一緒に顔を見合わせて笑ったことだけを覚えています。とてもとても優しく私たちを守ってくれました。

舞台での演奏で合格点をいただくと、母が舞台裏の廊下の向こう側から走ってきました。その時、病院から慌てて会場に到着した母は、着のみ着のまま薄手のベージュのコートをとりあえず引っ掛けただけの姿だったことをなぜか鮮明に覚えています。母はその時ちょうど40歳。

今はもう沢井忠夫先生も母もおばさんもいなくなってしまいました・・・。

沢井忠夫先生の音も演奏も、完璧な超絶技巧、クール、強い、きれい・・・などということばがどれほど虚しく、生やさしいかを思い知らせる圧倒的なものでした。子供の時に先生の演奏に出遭ったことは私にとって間違いない幸運だけれど、その後今に至るまで先生の演奏以上に心を揺るがす箏の演奏には出会えないのは幸せかどうか・・(笑)。

先生の音楽には、心の底にクサビが打ち込まれるような鈍い重さがあり、悲しみがあり、色気があり、狂気がありました。

私は沢井忠夫にはなれない。と悟り、もうとっくの昔に先生を追いかけるのはやめてしまったけれど、レッスンで先生は一度も私に「こう弾きなさい。」とおっしゃったことはありませんでした。たまに「こう弾いてみてごらん。」とおっしゃるだけで、ほぼ野放しでした。私は先生の手から生まれる奇跡の音にいつだって驚いては目をパチクリ。先生のお顔より手のショットが私の脳アルバムの中には多いのです。

伝説の箏曲家として歴史上の人物になりつつある先生。

私に伝え残してくださった大切なものは技術の向こう側にある光。

そう言いつつ、自分の動画を見て、先生の演奏姿に少し似てるかも?!とちょっぴり嬉しくなったりして(笑)。

うーむ。最近、ノスタルジックになっているかな?

いえいえ、先生は私にとって過去じゃないから!

See you soon!