2ヶ月も更新できず、ここを訪ねて下さった方々には本当に失礼いたしました。
前回の更新の後、コンサートが続き、文章をまとめる余裕が全くありませんでした。一つのことに集中すると他のことはほぼできなくなってしまう不器用さゆえどうかお許しください。
この空白期間に、何からご報告すれば・・・というくらいたくさんのできごとがありました。
まずは、最近の話題からゆるゆると綴って参ります。
12月12日(日)新しくオープンした和歌山城ホールで行われた『西陽子 plays 箏百景』。開場時にわずかに残っていたチケットも即完売で売り止め。
sold out!約400席満員御礼となりました。感激!
前日11日は、朝10時~夜7時まで昼食時を除いてほとんどぶっ通しでリハーサルを行いました。この日全員で合わせるのが初という曲が11曲中5曲。楽器編成や構成も違うために音のバランスを聴きながら曲ごとにcm単位で舞台上の位置を選び、音を合わせ、アレンジには修正も加えていきます。
和歌山城ホールの音響は素晴らしく、全曲生音で気持ちよく弾くことができます。自然な木の響きが心地よい!
楽器を選び、柱を選び、爪を選び、作品それぞれのイメージを明確にし、最高の状態でお届けできるよう環境を整えていきます。
演奏者とスタッフが一丸となって詰めていく作業。
私はというと、明日の本番をピークの状態に持っていくためにも弾きすぎてはいけない。と思いつつ、つい演奏を始めるとスイッチが入ってしまって、中途半端な音では満足できなくなってしまい・・・結局制御しきれず、かなりめいっぱい弾いてしまいました。若い頃は、何時間弾き続けても疲れ知らずでしたし、たとえ疲れたとしても次の日には完全復活しているのが当たり前で、何の不安もありませんでした。
だけど、一度舞台で指が攣ったのを経験してから、自分のコンディションもちゃんと整えていくようにしなくてはと思うようになりました。
それでも、若い頃の記憶が体に残っていてなかなかうまく抑制できず、練習しないと不安になるところを我慢して休むというのも修行だなあと痛感しています。瞬発力から時間をかけて熟成させるスローペースにシフトチェンジする、私にとっての新しい挑戦が始まっています。
さて、当日。
満員御礼のニュースを聞いて、楽屋は沸き立ち、私は感激しながらも緊張・・。
1曲目は『六段』。
舞台に足を踏み入れると、まだ演奏もしていないのに、拍手があまりに大きくて温かかったので、それでもう私の心はやられてしまいました!(泣)。
まだ演奏もしていないのに!(しつこい?笑)
拍手の音も音楽だなあ。と思いました。皆さんの手を叩く音にも音色があって、熱気や愛情が表現されていて、それが伝わってくるんです。
六段は着物で座奏。箏柱は随分前に有名なピアノの調律師さんの奥様から譲り受けた小ぶりの象牙柱を使いました。絹糸ではありませんでしたが、プラスチックの柱にはないマットで奥行きのある音色がします。
江戸時代に作られたこの作品。初演された時には、当然ながら高層ビルもなく、人々はみんな着物を着ていて、髪型も違えば、冷暖房もなく、食生活は質素で、何より生活のスピード感が今とは全く違う・・・イヤフォンで音楽を聴き、マイクから放たれる音響に酔い、(特に都会の日常生活では)車が走る音や工事の音に風や葉擦れの音などかき消されてしまう環境に身を置き、すごいスピードに振り落とされないように走り続けている私たち。
きっと耳の感覚も変わってきているのだろうと思います。
だけど、弾いているのも聴いているのも同じ『人間』。楽しいと思う気持ちも、笑顔も、優しさだって変わらない。(話が飛躍しすぎ?笑)
江戸時代の人たちと同じ耳では聴けないけれど、逆に六段に耳を澄ますことで江戸時代が見えて(聞こえて)くる。ような気がしないでもありません。
物や情報が溢れている現代から離れて、隙間だらけでほんの少しのものをじっくり味わう昔の感覚。走るのをやめて立ち止まってぐるりと周りを見渡すような時間。
これってすごく優雅ですよね?
私は練習を始める最初に、必ず「六段」か「みだれ」を弾きます。
手を馴らすウオーミングアップという意味だけでなく、ここに箏を弾くことの基本があって、私たちはいつだってこの大地の上に立っていると思うと背筋が伸びて、ざわざわした気持ちも鎮まるのです。
季節の移ろいのように緩やかな変化を味わいながら、音を置き、つなぎ、弾き終えた頃には雨上がりのような心持ちになります。
まずは「六段」から。コンサートもここからはじめました。
次に、辻本好美さんの独奏で「鹿の遠音」。続いて私とのデュオで「上弦の曲」。偶然にも本番前夜の月は上弦の月でした。
武満徹作曲「ノヴェンバーステップス」で尺八と琵琶は一躍世界にその音色の魅力が知られました。どちらの楽器も音色が個性的で、箏にはそんな強烈な個性がない・・・箏は大抵伴奏役で、地味で、どうしたって主役にはなれない。
ずっと悔しい気持ちがしていました。
その気持ちが一気に払拭したのは、権代敦彦さん作曲のオペラ『桜の記憶』をリトアニアで初演した時でした。オケピットにはフルオーケストラ、客席を囲むように大人の混声合唱団と子供の合唱団、そして、舞台上にはオペラ歌手の皆さんが、多くのユダヤ人にビザを発行し救った杉原千畝のストーリーを歌と演技で展開していきます。私は桜の精のような役割で舞台に上がり、時にはソロで、時には歌と一緒に演奏しました。
初演だけれど、舞台に上がる以上は暗譜という条件でしたから、リトアニアに向かう前にスコアを読みこみ、ガイドになるであろう旋律を見つけ自分でそれをピアノで弾いて録音し、自分が弾く部分はもちろん演奏を始めるタイミングや、オーケストラや歌手との絡みも頭に入れました。
2時間弱の舞台。演奏家は私以外全員リトアニア人。言葉も全てリトアニア語。暗譜でプロンプターもいない。初めての大きな経験に不安はつきませんでしたが、こんなに素晴らしいチャンスをいただけることの喜びの方が大きかった。
本当に必死でした。
そのとてつもなく大きな編成の演奏は、ラストシーンで全ての楽器と声が一体となって大音響となります。
そして、その後、最後の最後の音は箏の単音がひとつ。
その一音はブラックホールのように一瞬で全てを無に帰して場の空気をフリーズさせ、音の後には静けさだけが漂っていました。
たった一音で全てをひとつの点に吸引し集約して閉じ込めてしまう力。
とどめの一撃のように有無を言わせない圧倒的な力。
これこそが箏に秘められた力なのだと体感しました。
派手だの地味だの、主役だの、脇役だの・・・そんな小さなこだわりはあっさり吹き飛びました(笑)。
話はもどり、「上弦の曲」は尺八も箏も華やかで技巧的で、それこそどちらも主役の作品です。でも、これがさらっと上手く弾けるのではつまらない。尺八と箏が速い流れの中で微妙な間や音の濃淡を作り、お互いに仕掛けたり抜いたりしながら、わざわざ荒削りにしていくところがこの作品の本当の面白さだと思います。武道にも通じる真剣勝負!(勝ち負けはありませんが。笑)
「六段」「鹿の遠音」という古典の精神がここに繋がっているということを感じていただけたのではと思います。
さてさて、このペースでいくと、これまでのご報告がいつになったら終わるのやら。
今年中には今年のことをご報告し終えられるよう寄り道しながらのんびりとお話していきたいと思いますので、おつきあいくださいませ。
See you soon!