新型コロナウィルスの感染状況は一旦収束するかに見えたものの、また一気に悪化しました。
皆さん、お変わりなくお過ごしでしょうか?
準備してきたことがいつできなくなるかわからない。という不安定な状況に慣れてはきたものの、やはり何を拠り所にすればいいかわからないという環境にあっては何をしても充足感が得られず、なんとも心はずっと薄曇りという感じですよね。
こんな時って心も空回り状態で、ありあまる情熱や愛情が先走って余計な言動や行動をしてしまい、後から自己嫌悪に陥ることが増えます。(溜息…)
昨年末、高校生へのワークショップのために、久しぶりに民族音楽学者の小泉文夫先生の本を開きました。今その続きを読んでいます。
大学生の時に先生から直に講義を受けることができたのは本当に幸運だとしか言いようがありません。
『音楽の根源にあるもの』
出版されたのは今から約40年前。自分ではそんなに時間が経ったようには思わないけれど、その本を読むといかに環境が変わったかがわかりました。
もはや「わらべうた」はほとんど生活から消滅し、街にあった物売りの声や田舎に残っていた美しい仕事歌も聞くことができません。街行く人たちは、イヤホンを装着し、そうでなくても、スマホに集中していて耳は閉ざされた状態です。子供たちは外で遊ぶより家の中でゲームをするようになり、さらに、今はまさに、マスクをし外出もままならない状態ですから、窓を開けても車と工事の音が聞こえるだけです。
一方、スマホやPCでは世界中のありとあらゆる音楽を聴くことができ、YouTubeでは自然音や環境音、そして、プロもアマチュアも関係なくいろんな人のパフォーマンスを観ることができます。
歴史って動いているんだなあ。と実感します。(自分が生きている間は歴史なんて変わらないとどこかで思っているのですよね…)
小泉先生は、著書の中で日本独自の音楽が消え、世界の民族音楽が寂れていくことを憂い、これからの音楽はどうなっていくのかということを書かれていました。
今はどこの国でも伝統音楽や民族楽器を演奏する人がどんどん減っているのが現実です。
世界中の音楽が一つになるということが、世界が一つになるという喜ばしいこととはどう考えても思えません。いろんな音楽が存在した方が豊かに決まっています。
だけど、このままいくと、いつか地球上の音楽は全部似たようなものになっていくのかなあ。と想像します。
ああ、やっぱりそれは不気味だ!つまらない!
海外旅行に行って楽しいのは、見たことも聞いたこともないものに出会えるから。
違いをリスペクトし、楽しみ、認め合うこと。
それはきっと人間関係にも言えることですよね。
社会にはたくさんの区別や分類があります。
どこかで線引きをしなければ社会としての機能を果たせないから?
人は自分の存在や他人の存在をその区別で判断し理解している(理解したつもりでいる)?
その境界線はほとんどの場合目に見えるもので、年齢だったり、収入だったり、成績だったり、地位だったり、外見だったり・・・。
わかりやすくて、はっきりしたもの。
だけど、それは本当の自分?本当の誰か?
年齢を重ねれば肉体と精神にズレが生まれる、気持ちは若いけれど体はそうはいかない。
その人の本当の年齢はどっち?
もし、自己申告年齢で分けるなら、日本はまだ高齢化していなかったりして・・笑。
芸術は測れない。と思う。
それぞれの人が持っているそれぞれの目に見えない価値観で判断されるものだと思うから。
もし、目に見える理論だったり技術だったり、経歴だったり、表面的なインパクトがものさしになって判断されるようになってしまったら、芸術はいつか全部同一化してしまうんじゃないかな?
自分の心にどう映るのか。で価値は決まる。
自分の鏡をいつも磨いておきたいな。
鏡はたくさんの情報に覆われて曇りやすいから。
河原に転がっている一つの小石が、ある人にとってはただの石ころであり、ある人にとってはいつまでも見ていたいアート作品であったりする。
アートって人によっては全く価値のないもの。
それでいいんだと思う。それがいいんだと思う。
だからこそアートなんだと思う。
世界中で自分だけがいいと思うものがあるなんて素敵だと思いませんか?
子供の頃したように自分だけの秘密の宝物を持ち寄って見せ合う秘密会議があったとしたら、今もゾワゾワするし、なんとも魅惑的です。
今目の前にあるもの、近くで起こっていることは、あなたの鏡にどう映っていますか?
音楽家を職業にしてしまうと、いつの間にかより多くの人に受け入れてもらえるものを探すようになってしまいます。だけど、本当は、自分が見つけたとびきりの宝物をみんなに見せたい。というところから始まらなければならないように思います。
いざ、宝探しに!
See you soon!